エリウド・キプチョゲは史上最高のマラソンランナーです。過去2回のオリンピックで金メダルを獲得し、2018年のベルリンマラソンでは世界記録を樹立。そして、我々は再び人間の限界に挑戦する彼の姿を目撃したのです。2022年9月25日の日曜日にキプチョゲは2時間01分09秒という世界新記録を樹立しました。

世界記録が塗り替えられたことで「こんなことが可能なのか」という驚きが広まりました。COROSはキプチョゲの世界新記録達成に貢献したデータにアクセスすることができました。キプチョゲのペーサーとしてPACE 2を装着したモーゼス・コエチは、マラソン史上最も速いペースで中間点を通過したのです。

この記事ではマラソンの新旧世界記録を比較しつつ、モーゼス・コエチのデータの重要なポイントを紹介します。この素晴らしいパフォーマンスを、リラックスしながらご覧ください!

解析ソフトウェア: COROS Training Hub

* NN Running Teamは、これまで全てのデータを非公開にしていましたが、モーゼス・コエチのデータを公開しました。これは、今後のデータ公開を示唆するものではなく、今回の世界記録更新のための1つのケーススタディに過ぎません。

 

モーゼス・コエチ: NN Running Team所属のペーサー

モーゼス・コエチ(左手前)エリウド・キプチョゲ(中央)ノア・キプケンボイ(右)

世界記録を更新しようとするキプチョゲのために、NN Running Teamからモーゼス・コエチとノア・キプケンボイという2人のペーサーが任されました。“ペーサー”という役割では、キプチョゲが中間点まで世界記録ペースで走れるように先導するのがミッション。モーゼスのこれまでのトレーニングデータから、彼が高い走力を持ち世界でもトップクラスのランナーであることがわかります。ハーフマラソンで1時間00分00秒の自己記録(2020年バルセロナハーフ)を持つモーゼスは、キプチョゲが必要とする世界記録ペースを刻むことができるのです。

トレーニング強度

モーゼスは有酸素能力の開発(ゾーン1〜3のトータルが94.4%)に大きく比重を置いていますが、彼のハーフマラソンでの実力を考えれば当然のことです。ベルリンまでの4週間のデータを見ると、彼のトレーニングの大半はイージーペースか閾値の範囲内(大半がゾーン3まで)であることがわかります。エリートランナーのマラソン練習では、有酸素パワーと乳酸性閾値までの強度でその大半をこなしますが、これはパフォーマンスを向上させようとするマラソンランナーの模範的なトレーニングです。

 

乳酸性閾値ペース

上から各ゾーンごとに:有酸素持久力(青) / 有酸素パワー(水色) / 乳酸性閾値(黄緑) / 超乳酸閾値(黄色) / 無酸素持久力(オレンジ) / 無酸素パワー(赤)

モーゼスの乳酸性閾値ペースは2:48/km。すべてのランナーにとってこの閾値とは、トレーニングの目的に応じて40〜75分間程度維持できるペースのこと。キプチョゲの閾値ペースで先導したモーゼスは、中間点を通過してからもまだ走り続けましたが、これぞ、自分の身体をギリギリまで追い込むということになりました。

2022年ベルリンマラソンの分析

ペーサーのモーゼス・コエチのデータ: 2022年ベルリンマラソン

2022年のベルリンマラソンは、史上最高の持久系パフォーマンスとして語り継がれることでしょう。最初の5kmから世界新ペースのラップを刻み、最後の17kmはキプチョゲの独壇場となりました。「人間にとって何が達成可能なのか」そのセオリーは変貌を遂げつつあります。世界新ペースを達成するために必要なことは以下のデータで示されていますが、これまでの世界記録(2018年 2時間01分39秒)vs 新しい世界記録(2022年 2時間01分09秒)の比較とともにご紹介します。

 

0-5km: 14分14

2022年ベルリン0-5km / ペース(緑)/ ケイデンス(オレンジ)/ 心拍数(赤)

2022年ベルリン: スタートラインに立った多くのアスリートと同じように、アドレナリンが世界最高のランナーたち支配していました。スタートゲートから真っ先に出てきたモーゼスは最初の1kmを力強く走り出しましたが、すぐにペースが落ち着き最初の5kmで彼の心拍数が178~180bpm間で安定しているのがわかります。先頭集団は5kmを平均2分51秒/kmのペースで通過し、ペース配分を考えるとこれは異例の速さ。世界記録ペースを大幅に超える速さだっただけでなく、モーゼスも閾値の範囲内で走ることができました。彼はスタートから加速していく段階で214のピークケイデンスを記録しました。

旧記録と新記録の比較: 2018年よりも10秒速い

2018年、キプチョゲは最初の5kmを14分24秒というタイムで走り抜けました。2022年は14分14秒と10秒速くも、これは意図的なペース配分。歴史との戦いにおいて、スタートの方法はただひとつ... アグレッシブなペースを刻むことでした。今回の気温は約11℃で風も弱く、高速レースには絶好のコンディションだったのです。

 

5-10km: 14分09秒 (10km通過 28分23秒)

5-10km / ペース(緑)/ ケイデンス(オレンジ)/ 心拍数(赤)

2022年ベルリン:5-10kmでペースが上がりました。一時は2:38/kmペースまで上がった先頭集団がペースを大きく落とす気配はありませんでした。3人のペーサーと3人の選手という6人の先頭集団が、史上最速のマラソンを目指してレースを進めモーゼスはこの5kmを平均2分49秒/km、ピークケイデンスは191に達しました。モーゼスはこの地点でも自分の閾値の範囲内で走っており、キプチョゲの世界新記録をアシストしました。

旧記録と新記録の比較:2018年よりも38秒速い

5-10kmは今回の世界記録にとって重要な区間となりました。ここで2018年よりも28秒もの貯金を作ったのです(1kmで平均5.6秒速かった)。モーゼスからすれば、少しペースを落としてキプチョゲをより長く先導するか、このまま閾値で走り続けてチームメイトを成功に導くかのどちらかを選ぶことができましたが、キプチョゲがゴールに向けて集中し続けたことで、異次元のペースで走り続けることが既に決まっていました。

 

10-15km: 14分10秒 (15km通過 42分33秒)

10-15km / ペース(緑)/ ケイデンス(オレンジ)/ 心拍数(赤)

2022年ベルリン: 公式計時ではその前の5kmと大差がない区間でしたが、実は先頭集団にとってこの日の最速区間に。給水時に斜めに進むなど最短距離を走っているわけではないのです。この5kmでモーゼスの平均ペースは2分46秒/km、平均ケイデンスは181、心拍数は180台前半で徐々に上昇傾向。ややハードではありますが、モーゼスは素晴らしいレースを展開してキプチョゲのこの後の活躍を予感させました。

旧記録と新記録の比較: 2018年よりも1分05秒速い

先頭集団は飛ばしているもののキプチョゲには余裕があるように見えます。2018年にキプチョゲは15kmを43分38秒で通過しました。2022年は15kmで1分05秒の貯金と、大幅な世界新ペース。最高の戦術はネガティブスプリットであることが多いですが、NN Running Teamはレースの最初からミッションを遂行するだけでした。モーゼスはしっかりと閾値ゾーンをキープしてキプチョゲを先導していきました。

 
15-20km: 14分12秒 (20km通過 56分45秒)

15-20km / ペース(緑)/ ケイデンス(オレンジ)/ 心拍数(赤)

2022年ベルリン: 先頭集団の選手はペーサーを除き2人に。キプチョゲはペーサーを隣にして2分48秒/kmペースを維持。モーゼスはそれまでの各5kmで191、188のピークケイデンスを記録したもののこの5kmで186まで減少。これは脚が重くなり始め、ストライドの調整段階に入ったことを示しています。ケイデンスは若干落ちていますが、依然ペースは維持したまま。エリートランナーのパフォーマンスはしばしば犠牲を伴いますが、私たちが見ている挑戦は世界レベルであり誰からも讃えられるべきでしょう。

旧記録と新記録の比較: 2018年よりも1分11秒速い

世界記録更新の道のりにおいて貯金は増え続けていきます。しかし、2018年のベルリンでキプチョゲがネガティブスプリットでペースアップしたことを忘れてはいけません。とはいえ、先頭集団は驚異的な高速ペースを刻み続け、ペーサーは閾値をキープしてその役目を終えるまでギリギリのラインを攻め続けるのです。

 

中間点: 59分51

中間点 / ペース(緑)/ ケイデンス(オレンジ)/ 心拍数(赤)

2022年ベルリン: モーゼスはこれまでのキャリアの中で最も印象的な走りをしたのかもしれません。一定のペースを刻みながら、キプチョゲのペーサーとして中間点でハーフマラソンの自己記録を更新しました。59分51秒の通過記録は平均2分49秒/kmで、給水時に少し多くの距離を走っています。この日、限界まで走り続けたモーゼスの平均心拍数は177bpm、最大心拍数は186bpmでした。

旧記録と新記録の比較: 2018年よりも1分15秒速い

2018年、キプチョゲは1時間01分06秒で中間点を通過しました。今回はよりアグレッシブな高速ペースで59分51秒での通過。1分15秒の貯金があるとはいえ、このペースを維持できるかどうかは、キプチョゲの後半の走りにかかっています。ペーサーにとってはこの辺りが限界ギリギリのラインで、その役目を終える時が近づいていました。

 

20-25km: 14分23秒 (25km通過 1時間11分08秒)

20-23km / ペース(緑)/ ケイデンス(オレンジ)/ 心拍数(赤)

2022年ベルリン: ペーサーのモーゼスとノアが、キプチョゲと一緒に走る最後の局面。彼らが限界まで追い込んだ後は、キプチョゲが自身との戦いを始めます。23.34kmを先導したモーゼスは、この日新たな閾値ゾーンを再設定し(データ上の彼の閾値が2分54秒 → 2分48秒まで上昇し)COROS Training Hubのパフォーマンススコアでは120%の満点を獲得しました。記録的な日にペーサーとしての役割を果たしたモーゼスは素晴らしいレースを展開し、キプチョゲが歴史を塗り替えるためのアシストをしました。そして史上最強の男が、世界記録ペースで残りの19kmを独走する時がやって来たのです。

旧記録と新記録の比較: 2018年よりも1分16秒速い

ペーサーたちが役目を終えた後、キプチョゲに託されたのは新たな歴史に名を残すこと。中間点から25kmまでに貯金を1秒しか作れなかったので、彼がやるべきことは明確でした。2018年のキプチョゲはネガティブスプリット。今回はこの1分16秒の貯金をここからの17kmで守り抜くことがミッションに(1kmあたり4.47秒のロスならまだOK)。これは大きな貯金のように思えますが、単独走での17kmは長い道のりです。

 

25-30km: 14分32秒 (30km通過 1時間25分40秒)

2022年ベルリン: 前述したように閾値の維持時間には限りがあり、血中乳酸値の上昇やその他の生理学的な要因があるため、エリートランナーにとってマラソンでは有酸素性パワーのゾーンで走るのがベストでしょう(サブ3レベルの場合)。キプチョゲのデータ上の数値はわかりませんが、彼は閾値付近で走っているもののそれを大きく超えていないように見えます。とはいえ、スタートからペースが速すぎたのでしょうか?その答えは、最後の17kmを独走するキプチョゲの走りを見れば、すぐにわかることです。

旧記録と新記録の比較: 2018年よりも1分05秒速い

キプチョゲはこの区間で貯金を9秒を失い、ペースダウンの傾向をみせました。やや減速しているとはいえ1kmあたり4.47秒はロスしても大丈夫。それでも、まだまだ長い道のりです。キプチョゲは力強い走りで2位の選手を置き去りに。ここからの35分間はキプチョゲにとって時計との戦いとなります。

 

30-35km: 14分30秒 (35km通過 1時間40分10秒)

2022年ベルリン: 史上最高の持久系パフォーマンスが繰り広げられています。キプチョゲはこの5kmをその前よりもやや速いペースに。2018年のネガティブスプリットには及ばないものの、今回は2分53-55秒/kmで安定していました。2分40秒台半ばの高速ペースでレースは始まり、驚異的なハイペースで中間点を通過した後もキプチョゲは力強いケイデンスを刻みながら、目の前のタスクに集中し続けています。

旧記録と新記録の比較: 不明

2018年は35kmからの公式計時が記録されませんでした。あくまで推測とはいえキプチョゲは引き続き2018年からのタイムロスを余儀なくされているものの、そこまで大きな損失ではなさそうです。キプチョゲは依然、世界記録ペースをキープしつつゴールが間近に迫ってきました。

 

35-40km: 14分43秒 (1時間54分53秒)

2022年ベルリン: 「今、彼の頭の中はどうなっているのだろうか」と思わざるを得ないほどです。世界記録はすぐそこまできているものの終盤は誰にとっても苦しいもの。ここで2分57秒/kmまで減速し、序盤のペースより1kmあたりおよそ6-8秒も遅くなっています。しかし、世界記録を狙うなら全力を振り絞るしかありません。35-40kmで私たちが目撃したのは、彼の気迫と決意の証です。ペースが落ちているとはいえ、歴代最高の走りをしていて世界記録は彼の手中に収められそうです。

旧記録と新記録の比較: 2018年よりも39秒速い

39秒の貯金。歴史が塗り替えられるのは目前です。2018年の時と同じように終盤にペースを上げて世界新記録へ。沿道の観客は歓声を上げ、興奮は最高潮に達しています。新たな歴史の誕生まで残り2.195km。

 

40-42.195km: 6分16秒 (2時間01分09秒)

世界新記録: 自身の世界記録を更新したキプチョゲ!2時間01分09秒

2022年9月25日、ドイツ・ベルリンにて史上最高のマラソンパフォーマンスが達成されました。エリウド・キプチョゲは優秀なコーチ、スタッフ、チームメイトに囲まれ、2時間01分09秒の世界新記録を樹立。COROSは長年に渡って素晴らしいパフォーマンスを目にしてきましたが、今回のようにチーム一丸となって人間の限界に挑戦する姿を見たことがありません。この日は、持久系スポーツの歴史において「何が達成可能なのか?」を探求し続ける重要な1日となりました。

 

まとめ

世界最高のチーム環境でトレーニングを行う際、NN Running Teamのアスリートは競技力向上のための重要なポイントすべてにフォーカスしており、それらは特異的なトレーニング、ペース配分、モチベーションなどです。今回のパフォーマンスからインスピレーションとモチベーションを得たランナーは、COROSのトレーニングツールを利用することで、これらの項目を可視化できるかもしれません。NN Running Teamのチームメンバーの今回の素晴らしい成果を祝福したいと思います!