ボストンマラソンに向けて準備する多くのランナーは、シーズン全体を通して考えた「目標タイム」を追い求めています。
彼らは1kmごとのペースを設定し、スプリットタイムを記憶し、何ヶ月ものロードワークを通じて有酸素能力を研ぎ澄ませてきました。しかし、ペッター・エングダールがボストンに持ち込むものは、それらとは少し毛色が異なります。
スウェーデンのトレイルランナーであり、2022年のCCCを制覇するなど、この競技で最も輝かしい実績を持つ1人である彼は、いわゆる「ロードランナーとしての経歴」を持ってスタートラインに立つわけではありません。
彼が持っているのは、ボストンというコースが真に求めているものに対して、ある意味ではより適していると言える武器、すなわち、牙をむくような険しい地形を長年攻略してきた経験なのです。
ボストンはベルリンではない
ボストンマラソンで世界記録が生まれないのには理由があります。ホプキントンからボストンへと向かうコースは全体で見れば下り基調であり、一見するとスピードが出そうに思えます。しかし、一般的には30km地点にたどり着く頃には、大腿四頭筋(前もも)が何千回もの着地衝撃(エキセントリック収縮)に晒され、余力が全く残っていない状態で「ハートブレイクヒル(心臓破りの坂)」を見上げることになるのです。
ボストンを巧みに攻略するアスリートは、レース前半を最速で駆け抜けた選手であることは稀です。彼らは序盤の数kmを「いずれ返済しなければならない借金」のように扱い、借りすぎないように自制できる人々です。
こうした計算(駆け引き)は、マラソン選手が一般的に考えている以上に、トレイルランナーに有利に働きます。トレイルにおいて、エネルギー管理は単なる戦術ではなく、競技の本質そのものだからです。数百メートルごとに地形が変化する環境では、ペースという数字は意味をなしません。重要なのは、自分の体の声を聴き、路面状況が易しい時にはあえて抑え、厳しくなった時でも自分をコントロールし続けることなのです。
エングダールは何年もの間、山々を舞台にまさにそれを実践してきました。彼にとって、ボストンは単なる「次の地形」に過ぎないのです。
ロードに活かすトレイルの思考法
エングダールは、周囲に無理に合わせようとする「部外者」としてボストンに挑むわけではありません。トレイルランナーである彼にとって、このマラソンに対しての課題は、いわば「慣れ親しんだレシピの新しい味付け」のようなものだと理解しています。
まず何よりも重要なのが、エネルギー管理(エフォートマネジメント)です。トレイルではペースという数字に意味はありません。地形が勝手にペースを決めてしまうからです。そこでエングダールがコントロールするのは、心拍数や自覚的運動強度(RPE)、そしてある時点でどれだけ体力を使い果たしているかといった「内部負荷」の部分です。
自分の体の状態を正しく読み取れるかどうかが、力強いフィニッシュを飾れるか、あるいは「負け試合」のような悲惨な結末を迎えるかの分かれ目になります。そんな過酷な環境で長年レースを戦ってきたからこそ、この調整能力は磨かれてきました。
「できる限りエフォート(主観的な強度)を基準にし、自分の脚の状態に耳を傾けて走るつもりです」と、彼は語ります。それこそが、彼が知る最高の戦い方なのです。
ボストンが求めているのは、まさにその能力です。序盤の下り坂は一見すると非常に走りやすく「今のうちにタイムの“貯金”を作っておこう」という強い誘惑に駆られます。しかし、下りの一歩ごとに、大腿四頭筋は静かにダメージを蓄積しています。そして32km地点で「ハートブレイクヒル」が立ちはだかる時、序盤にどれだけ消耗したかは、もはや隠しようがありません。「路面が易しく感じられる時こそ自制し、苦しくなる前に自分をコントロールする」というエングダールのトレイルの感覚。それこそが、まさにこのコースがランナーに求めている資質なのです。
さらに「耐久力」という要素もあります。「私には精神的、そして肉体的な持久力が備わっていると思っています」と、エングダールは語ります。「42kmという距離は自分にとってかなり短く感じられるので、その距離を走り抜く準備は十分にできています」。これは決してマラソンという距離を軽んじているわけではありません。長年ウルトラマラソンやトレイイレースを戦ってきたことで、「どの程度の負荷なら維持できるか」というアスリートとしての感覚が研ぎ澄まされていることの表れなのです。また、彼は自身のフィニッシュ(終盤の粘り)にも自信を持っています。「自分はレースの終盤を強く走り切れると確信しています」。ラスト10kmで多くのランナーが力尽きるこのコースにおいて、その自信は決して小さな強みではありません。
彼のVO2maxは、終盤の坂道において独自の強みとなります。ニュートンの上り坂で多くのロードランナーの心拍数が急上昇する一方で、エングダールはそこを自らの本領を発揮できる場所だと見込んでいます。「坂に差し掛かった時こそ、私のトレイルランニングの経験が(周囲との)決定的な差を生む瞬間になるかもしれません」と彼は語っています。
マラソンに向けたトレイル・トレーニングの調整
エングダールの例年の冬の過ごし方は、マラソンに向けた体作りのプロセスとはまったく異なるものでした。通常、彼は12月と1月はスキーに集中的に取り組み、ランニングは走力を維持する程度にしか行いません。
しかし今シーズン、彼はそのルーティンを完全に白紙に戻しました。12月の初めからランニングを最優先事項に据え、週の走行距離は100kmから160kmにまで急増しました。
週間の走行距離がこれほど劇的に増加したことに加え、そのほとんどがロードや平坦な地形でのトレーニングでした。そのため、身体にも変化が現れました。「以前よりも関節や、すねの骨に疲労を感じるようになりました」と彼は語っています。故障することなくこの負荷を管理し続けることが、今回の準備における重要な課題の1つとなりました。
それに伴い、強化の重点項目も、ストライドのメカニズム、ランニングエコノミー、そして股関節やふくらはぎの筋力へと移っていきました。これらはロードランニングにおいて酷使される一方で、トレイルランニングでは同じようには求められない要素です。彼は12月からランニングエコノミーの計測を開始し、ラボでのテストやVO2maxのトレーニングを通じて、自身の変化が定着しているかを確認してきました。日々の指標はよりシンプルで「特定の心拍数におけるペース」を基準にしました。同じ心拍数でより速いペースが出ていれば、それは身体の適応がうまく進んでいる証拠でした。

「準備を進める中で、ペースが向上したことが最も価値のある成果でした」とエングダールは言います。「そのペースを自分の心拍数と関連付けて考えています。これまでのトレーニングに基づき、マラソン本番でどの程度のペースを目指すべきかは、自分の中で明確になっています」
今回のトレーニング期間中、特に際立っていたセッションが2つあります。そのうちの1つは、ロードからトレッドミルへと場所を移して行われました。まず屋外で32kmをイージーペースで走り、その後トレッドミルに移動して11kmのビルドアップ走行(徐々に負荷を上げるトレーニング)を行うというものです。
この練習の狙いは、脚がすでに疲労した状態で高い出力を維持する感覚を養うことにありました。それこそがまさに、ボストンマラソンのラスト11kmで求められる能力なのです。
もう1つのセッションでは、また質の異なるタフさが求められました。マイナス15度という極寒の中、ジョナサン・アルボンと共にトレーニングを行い、25kmのイージーランニングに続いて、1時間の中強度ランを完遂したのです。「ハードなセッションでした」と彼は振り返ります。「ですが、こうしたタイプのトレーニングを彼と一緒にこなせたのは、素晴らしい経験になりました」
レース当日:ペースよりも「エフォート」
エングダールが語るボストンマラソンの攻略法は、いわゆるロードレーサーのレースプランというよりも、42.195kmという距離に最適化された「ウルトラマラソンの戦略」のように聞こえます。
「起伏の激しいコースですし、序盤はかなりの下り坂が続くので、エネルギーと脚の状態をうまく管理することが重要になると考えています」
彼のウォッチの画面にはペースが表示されるでしょうが、それが主導権を握ることはありません。「ペースも確認はしますが、スプリットタイムに縛られるのではなく、良いタイムを出すために自分の感覚をより研ぎ澄ませて走るつもりです」
日々のHRV(心拍変動)のトラッキングは、トレーニング期間を通じて、自身のコンディションをリアルタイムで把握するための窓口となりました。こうした規律を守ることは、長期間にわたって高負荷なトレーニングをこなすすべてのランナーにとって極めて重要です。休息が必要な疲労なのか、それとも走り込みを続けるべき疲労なのか。その違いを見極めるのは1つのスキルですが、HRVのデータは、憶測に頼ることなくその判断を下す助けとなります。
エングダールにとっての「完璧なレース」とは、どのようなものでしょうか。「堅実なスタートを切り、難所をうまく切り抜け、そして力強くフィニッシュすることです。終盤にペースを上げて、より速いラップタイムを刻みたいですね」と彼は語っています。ボストンのコースレイアウトを考えると、後半のタイムが前半を上回る「ネガティブスプリット」を達成するのは容易ではありませんが、不可能というわけでもありません。25kmから35km地点の間には4つの主要な上り坂が控えています。ここを越えた後に余力を残せているアスリートとは、前半に自制心を保ち、体力を温存できた者だけなのです。

実践的なポイント:初めてのマラソンに挑むトレイルランナーへ
異なる2つの競技の境界線を越えるとき、そこには必ず、一方からもう一方へと引き継がれるスキルが存在します。もしあなたがトレイルからロードマラソンへと転向しようとしているなら、山で築き上げてきた能力を正しく活用することで、それを最大の武器にできるはずです。
ペースではなく、エフォート(主観的強度)で走りましょう。
皆さんはトレイルですでにこれを実践しているはずです。その本能をロードにも持ち込んでください。ボストンのようなコースでは、序盤のスプリットタイムはあてになりません。心拍数や自覚的運動強度を指標にして、前半はしっかりとコントロールを保ちましょう。
伸張性収縮による負荷を軽視してはいけません。
たとえコースが速そうに見えたとしても、下り坂を走ることでダメージは蓄積されていきます。心肺機能には余裕があるように感じられるかもしれませんが、脚は着実に代償を払っているのです。本番に備えて、トレーニングの中に下り坂に特化した練習を取り入れましょう。
持続的な出力を維持するためのトレーニングを行いましょう。
トレイルランニングには自然な変化があり、その中で微小な回復が生まれます。しかし、マラソンにはそれがありません。長時間にわたる連続的な負荷に体を慣らすために、ゾーン2からゾーン3へとつなげるような、より長い距離の中強度練習を取り入れてください。
耐久力を武器にしましょう。
トレイルランナーは、脚が疲れ切った状態からどう走るかを熟知しています。それこそが、ロード専門のランナーに対して優位に立てるポイントです。序盤は忍耐強く走り、周囲のランナーが失速し始める終盤に、勝負をかける力を温存しておきましょう。
レースの進め方をシンプルに考えましょう。
トレイルでは、地形、ナビゲーション、補給、天候などを同時に管理しなければなりません。しかしロードでは、そうした「ノイズ」を取り除いてください。補給プランをしっかりと固定し、自分のエフォート(強度)を監視し、「体感的には楽に感じるが、実際には体力を削りすぎる急激なペースアップ」を避けましょう。
ペター・エングダールがボストンにやってきたのは、いわゆるロードレーサーのような走りをするためではありません。そのアプローチが、彼の追い求める結果に結びつくかどうかは、レース当日に明らかになるでしょう。
しかし、彼の戦略は極めて理にかなっています。そして、その戦いを見守るトレイルランナーたちにとって、彼のトレーニングのプロセスは、単なるレース結果よりも価値のある、より確かな「設計図」を提示してくれているのです。
COROS(カロス)に関する最新情報はこちら🔻
■Line
#COROS #カロス

/filters:quality(90)/fit-in/970x750/coros-web-faq/upload/images/02d40a4cb75efd36b3319a389269d2a4.jpeg)